大原美術館:『信仰の悲しみ』関根正二

5人の女性たちが歩いていますね。何の行進なんでしょう?

大原美術館
関根正二(1899-1919)
『信仰の悲しみ』1918

【鑑賞の小ネタ】
・関根正二は20歳にして夭折
・小学校の同級生に伊東深水
・見えないものが見える幻視者
・亡くなる前年の作品
・国指定重要文化財作品

透け感のあるドレスとバサーッとしたヘアスタイルにまず目が行きました。そして、よく見るとみんな何か持っているようです。花なのか果物なのか。全体的に少し不気味な印象でしたが、ドレスの色が明るめだったり、持ち物(花や果物)の色が赤や黄色なので、案外楽しい行進なのかも?と思ったり。

関根正二は20歳で夭折した天才的画家です。『信仰の悲しみ』は、第五回二科展に出品され、樗牛(ちょぎゅう)賞を受けています。(※樗牛賞は二科展の新人賞)
この頃の関根は極度の神経衰弱と精神錯乱に陥っていたようで、様々な暗示や幻影がはっきり見えていたそうです。

この絵について彼は、「朝夕孤独の淋しさに何物かに祈る心地になる時、ああした女が三人又五人、私の目の前に現れるのです」と述べている。

大原美術館名作選 監修 高階秀爾

精神的にかなり不安定だったことがうかがえます。

この絵は、あてもなく日比谷公園を歩いているとき、公衆便所から女がたくさん出てくる幻影を見たところを描いたものといわれています。関根はこの作品を二科展に出品する前、同級生の伊東深水(大正昭和期の浮世絵師・日本画家・版画家。娘に女優の朝丘雪路がいる。)に見せに行ったそうです。深水に画題をたずねられ、『楽しい国土』と関根は言いましたが、深水から「いかにも宗教画という感じ」「楽しいというより、悲しみのどん底にいるような絵じゃないか」と言われ、『信仰の悲しみ』と題して出品したと伝えられています。(参考資料:三重県立美術館HP)

関根的には、『楽しい国土』だったんですね! 楽しいのか悲しいのか判断が難しいわけです。

この頃の宗教的絵画作品が他にもありました👇

福島県立美術館
関根正二
『神の祈り』1918年頃

『神の祈り』という題名は、関根の没後につけられた可能性が高いとありました。後ろを歩く女性の頭に円光(えんこう、仏・菩薩の頭の後方から放たれる光の輪。後光。)があるので、この女性がこの世の人ではないことは分かります。では、前を歩く女性はどうなんでしょう?髪が整えられているように見えます。円光もないので、神ではなく人なんでしょうか? 

関根について調べていると、幻視・幻影という言葉をよく目にします。幻想や空想ではなく、「本人にとっては見えている」ということを強調しているように感じます。頭の中で想像してそれを絵にしているのとは違うんですね。本人的には実際に見えているものを描いているわけで、現実と非現実の区別がつかない中、関根もさぞかし混乱したことと思います。

ところで、「幻影」で思い出しました。ゴーギャン『布教のあとの幻影』です👇

スコットランド国立美術館
ポール・ゴーギャン(1848-1903)
『布教のあとの幻影』1888

手前に描かれている女性信徒達は、教会の布教を受けた後、幻影を見ました。それは、聖徒ヤコブと天使がレスリングするという一幕(聖書に書かれている一場面)です。これはゴーギャンが見た幻影ではなく、女性信徒達が見た幻影ということなので、関根の場合とはちょっと状況が違いますね。

   

宗教画は、神や聖人、霊的な存在等を描くことが多いので、実際にそれらを見ながら描くということは難しいと思われます。画家は、自らの想像や空想、インスピレーションにより作品を仕上げるということになりそうです。そうしてみると、関根の幻視・幻影による宗教画はもしかしたら珍しいのかもしれません。関根的には実際に見えているものを描いているわけですから。 ただし、関根自身は、宗教画を描いたつもりは なかったのではないかと筆者は思います。『信仰の悲しみ』は関根的には『楽しい国土』、『神の祈り』は関根の没後付けられた題名の可能性大ということなので「二人の歩く女性」でもよかったかもしれませんし。そうなると宗教画と断定するのは難しいのではないでしょうか。

現在『信仰の悲しみ』は、分館長期休館中のためか本館に展示されています。3室エル・グレコ『受胎告知』の次の部屋、4室に展示中です。『信仰の悲しみ』のこの様子が、関根には実際見えていたんだなぁという思いで鑑賞すると、見え方がまた変わるかもしれませんね。