黄道十二宮と黄道十二星座について

星占い(星座占い)でお馴染みの十二星座。 西洋占星術を簡略化した占いの一種ですね。過去記事(黄道十二宮:ミュシャ)でミュシャの『黄道十二宮』を取り上げましたが、この「黄道十二宮」と星座占いは深く関係しています。

※誕生日の期間は若干前後します。

黄道(こうどう)とは、天球(地球上の観測者を中心として空を描いた球面)上での太陽の見かけの通り道のことです。昼間は明るくて星は見えませんが、太陽の方向にもしっかり星(星座)は存在しています。

出典:国立教育政策研究所HP  (国立研究開発法人)科学技術振興機構 製作
   『太陽の方向にある星座の変化』

『太陽の方向にある星座の変化』 の図を見ると、「4月-うお、5月―おひつじ、6月―おうし、7月―ふたご、8月―かに、9月-しし、10月―おとめ、11月―てんびん、12月―さそり、1月―いて、2月―やぎ、3月―みずがめ」となっています。これが「黄道十二星座」です。

「黄道十二宮」とは、黄道に沿って天域を12分割したもので、「黄道十二星座」とは別物です。前出の表の2000年前と現在の十二星座に注目してみてください。1つずつずれていますよね。(※現在の十二星座と上記の『太陽の方向にある星座の変化』の十二星座は一致しています。) 歳差運動( 自転している物体の回転軸が、円をえがくように振れる現象)により、黄道十二星座の位置が少しずつずれて行った結果です。 西洋占星術の歴史は古いので、少なくとも2000年前は、それぞれの宮(黄道十二宮)の領域に入る星座(黄道十二星座)はほぼ一致していたのでしょう。

ところで、一般的に「○○座生まれ」という時、3月21日~4月20日の間に生まれていた場合「おひつじ座生まれ」としていますよね。現在の黄道十二星座的には、「うお座」なのに。 つまり、本来は「○○宮生まれ」、この場合「白羊宮生まれ」とするのが正しいのだと思います。

     

【おまけ】
黄道が通っている星座は、現在、13星座です。黄道十二星座に「へびつかい座」が加わったかたちです。 一般の星座占いは12星座で占っていますが、たしか過去に「13星座占い」のブームがあったような…。

黄道十二宮:ミュシャ

ミュシャの有名なリトグラフ作品『黄道十二宮』は何パターンもあります。

『黄道一二宮 ラ・プリュム誌のカレンダー』1896
アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)

元々は、シャンプノワという印刷業者の依頼で制作されたもので、室内用カレンダーだったようです。その後、雑誌「ラ・プリュム」の編集長が版権を購入して、1897年用のカレンダーに使用しています。

その他のパターンのいくつかがこちら。

同じ版でも、色が違うと随分印象が変わるものですね。また、中央の豪華なティアラをつけている女性については、『ラ・ナチュール』という彫刻で表現されています。

『La Nature』(1899-1900)
ブロンズ彫刻

「黄道十二宮」の中央の女性を立体化したものということですね。

ちなみに、雑誌『ラ・プリュム』の表紙がこちら。

『ラ・プリュム誌の表紙 』
アルフォンス・ミュシャ

「ラ・プリュム」誌はレオン・デシャンにより創刊された芸術雑誌で、デシャンは舞台女優のサラ・ベルナール(過去記事、ミュシャの出世作『ジスモンダ』)と同じく、ミュシャを高く評価しました。ミュシャ特集号を発行する等、ミュシャの紹介に力を入れたそうです。

それにしてもミュシャは、要所要所で重要な人と出会い、見事その期待に応えているアーティストだと思います。そもそもミュシャに才能があったことは間違いないのですけど。出会いは大事ですね(^-^)

大原美術館:『人質』フォートリエ

インパクトの強い作品名ですね。

大原美術館
ジャン・フォートリエ (1898-1964)
『人質』1944
グワッシュ、石膏、紙

【鑑賞の小ネタ】
・シリーズ作品「人質」の中の一点
・画家自身がドイツ軍に追われる
・精神的圧迫の中で制作される
・「最も戦後的な画家」と賛辞される

藍色のような深い緑色のような、落ち着く色合いだなと思って見ていたのですが、作品名が『人質』ということで、一瞬にして見方が変わりました。筆者は、作品名を後で見る派です。先に作品名を見てしまうと、イメージが出来上がってしまうからです。作品に対する第一印象は、人それぞれ違うもので、それが大事なのではないかと筆者は思っています。とは言え、作品名はもちろん重要です。自分の第一印象と作品目を照らし合わせて、改めて鑑賞することをお勧めします。二度楽しめますよョ。

『人質』の制昨年は1944年です。第二次世界大戦(1939年~1945年)中ですね。フォートリエはフランスの画家で、パリで活動していましたが、ゲシュタポ(ドイツ軍の秘密警察)に追われ、避難生活を送っています。避難先で制作されたのが、連作「人質」のようです。 

「人質」シリーズの別の作品がこちら。

国立国際美術館
『人質の頭部』1944

彫刻もありました。

『人質の頭』1943-44

どの作品も横顔で、形が似ていますね。絵画作品の方をよく見ると、薄く顔の輪郭のような線があるのが分かるでしょうか? 存在の危うさを表現したものなのかなとか、色々想像してしまいます。

そして、目に注目です。大原美術館の『人質』の目は、悲しげではありますが、とても優しそうに筆者には見えます。国立国際美術館の『人質の頭部』の方は、ブラックフォールのような黒い目になっています。バックも暗い色なので、全体的にかなり陰鬱な仕上がりになっていますね。

ピカソの戦争をテーマとした作品『ゲルニカ』と同様、フォートリエ「人質」シリーズも、戦争というものを今一度考える見応えのある作品ではないかと思います。

ところで、作品の背景を知り過ぎて、鑑賞しているとヘトヘトになってしまう作品に出会ったことはないでしょうか?「人質」シリーズは、その系列の作品だと筆者は思っています。

大原美術館:『雨』フォートリエ

深い緑色が印象的です。

大原美術館
ジャン・フォートリエ(1898-1964)
『雨』1959
グワッシュ、石膏、紙

【鑑賞の小ネタ】
・フランスの画家で彫刻家
・抽象芸術の先駆的人物
・ジャズ愛好家

この作品を最初に見た時、「島」を表現したものなのかと思いました。 作品名が『雨』ということなので、斜めの線は「雨」なんでしょうか?そうだとすると、シトシト降る雨ではなくて、ザーザーと激しい雨のような感じがします。

作品『雨』は、実際見ると分かるのですが、表面がデコボコと盛り上がっています。平らな彫刻作品をキャンバスに貼ったような作品で、 画材に石膏や紙が使用されています。フォートリエは彫刻家でもあったということなので納得ですね。

パリ国立近代美術館
『悲劇的な頭部(大)』1942

ところで、フォートリエはジャズ愛好家でもあったようで、いくつかの作品にジャズにちなんだ作品名を付けたと言われています。次の作品『永遠の幸福』はそのような作品の中の1つのようです。(大阪中之島美術館HPより)

大阪中之島美術館
『永遠の幸福』1958

制作年が『永遠の幸福』は1958年となっています。『雨』は1959年なので、ほぼ同時期ですね。  大原美術館の『雨』も、ジャズにちなんだ作品なのではないかということですが、詳しくは分からないそうです。

『雨』に似たような作品が他にもあります。

個人所蔵
『黒と青』1959

制作年が1959年で、『雨』と同じですね。

次の作品は、「線」に重きが置かれているようです。

アーティゾン美術館
『旋回する線』1963

フォートリエはタシスムの代表的な画家です。タシスムとは、 アンフォルメル(非定形、形がない)絵画の一潮流です。 フランス語で「染み、汚れ」を意味する「タッシュ(tache)」に由来します。1940年代後半から50年代にかけてフランスを中心に隆盛しました。

また、戦後の現代美術を支えた南画廊(1956年開廊~1979年閉廊)で、1959年に「フォートリエ展」が開催されています。会期中にはフォートリエ夫婦も来日していて、この個展は大成功を収めたようです。日本との深い関わりを感じるところです。 

大原美術館:『冬の果樹園』クラウス

大原美術館
エミール・クラウス(1849-1924)
『冬の果樹園』1911

【鑑賞の小ネタ】
・クラウスはベルギーの画家
・ルミニスムを代表する画家
・作品名の変更あり
・後景に水辺あり

作品名が以前は『二月』だったような気がして調べてみると、国立新美術館の展覧会情報検索ページに、2007年「この1点」エミール・クラウス《二月》2007-12-25~2008-03-23大原美術館 とありました。いつ『冬の果樹園』になったのか分かりませんが、やはり作品名の変更があったようですね。

冬の風景であることは間違いなさそうです。ただ、冬なのに結構明るい色を使っていますよね。枯草?にしてはとても明るい黄色、紅葉かと思うくらいの葉の色、前景や後景に見える緑や青や紫やピンク色。そして川の色はきれいな水色です。冬の川の色といえば、筆者的には灰色っぽく描かれそうなイメージなんですが。
四季が全部詰め込まれたような作品だなと思いました。

この場所はどこなのでしょうか?
クラウスは、1883年からベルギーのダインゼ近くのアステネに居を構えています。第一次世界大戦中(1914年~1918年)は、イギリスのロンドンに移り、ロンドンの風景を描いていたようですが、戦争が終わるとアステネに戻って1924年に亡くなっています。『冬の果樹園』の制作年は1911年なので、アステネにいた頃ということになります。クラウスが住んでいる近くの果樹園なのでしょうか?
ところで、こんな絵を見つけました。

『レイエ川の10月の朝』1901

『冬の果樹園』と似た感じの風景画ですよね。制作年が1901年となっています。アステネに住んでいる頃の作品ということでいいと思います。季節は違いますが、同じような場所を描いたのでしょうか? そして、作品名に注目です。「レイエ川」とありますね。アステネを地図で調べてみました。

ベルギーのアステネの中心部には、確かに「レイエ川」が流れていました。『冬の果樹園』の光景が川だとすると、この「レイエ川」かもしれませんね。

さて、『冬の果樹園』の冬らしくない色彩についてです。これはルミニスム(光輝主義。明るい光に包まれたような作風)の画家だからなのではないかと思っています。クラウスはモネから強い影響を受けていますが、モネなどフランスの印象派の光の捉え方とはまた少し異なっているようです。次の作品の光の捉え方を見てみてください。

個人蔵
『昼休み』1887-90

逆光になっていますよね。クラウスの作品の特徴なんだそうです。

『冬の果樹園』をよく見ると、手前が暗く奥が明るくなっている感じがします。手前に4本の樹木が描かれていますが、どれも暗めの色が塗られています。樹木の見えてない裏側は、なんとなく明るい感じがしませんか?『昼休み』の女性と同じく、向こう側には光が当たっていて、つまり、逆光の状態になっているのではないでしょうか?

クラウスの逆光を上手く表現した絵は、心地良い眩しさがあって、なぜか懐かしい気持ちになります。 いいですね(^-^)

    

グリーニング美術館
『アステネのレイエ川』1885